何ごちゃごちゃぬかしとるんじゃ 10


さて、お互い席に着き、いよいよ本格的なコンサルが開始され「とにかく新規利用者をどうしたら増やせるのか」という話になったのだが、その中でおじいちゃんコンサルの<X氏>は「診療内科(精神病院)を回ってパンフレットを置いてもらいましょう」と提言してきた。

 

 

そして私に順番が回ってきた時、そのパンフレットを置いてもらう事に対して、「まあすぐに効果がでるものではないでしょうけど、ええ事なのでやっていきましょう」と応えた。

 

 

そして暫く何事もなかったように間を置いて、急におじいちゃんコンサル<X氏>が声を震わせて「あなたね、みんなでやっていきましょう、という時にね、効果がでないとは何事だ!!」と叫んできた。

 

 

この記事を書いているのが1年と少し経った時点で、今でもハッキリと思い出せるのだが、私はその時、何故か物凄く冷静だった。

私の頭には「はは~ん、さてはA女史から『みんなにカツを入れてくれ』というたぐいの依頼があったんやな、しかしえらい不自然なタイミングやな」

 

 

X氏も、うだつの上がらぬアラサー男と、この時点までは極めて紳士的な喋り方で接していた私の二人だけだから、ここはガツンと出たら皆シュンとなるだろう。「ちょろいちょろい」と思っていたに違いない。

 

 

まさか紳士的で上品な喋り口調だった私からヤマを返されるとは夢にも思わず・・。

 

 

私は冷静にそう分析すると、感情的にはならず、これまた冷静に「ここは一発播州弁でカマシ入れたったら、オッサンどない出てくるやろ」と分析・仮説をたてながら、しかし声は張り上げて

 

 

「おい、こら、おっさん、おんどれ何ごちゃごちゃぬかしとるんじゃ!

今月新規入れる・入れんの話しとるんやろがい。

そんなこと言うとったらワシら言えるもんも、ようモノ言われへんようになるやないけ!」

 

 

これは活字では上手く表現できないが、「ら行」は全て巻き舌、「しとるんやろがい」の「い」は、「い」と「え」の中間くらいの発音、全体的には「しとんねやろがえ」といった感じである。

 

 

私自身は播州で生まれも育ちもしていないが、父親が播州でも言葉の荒い地域の育ちで、当然私が子供のころ怒られるときは聞かされていたし、昭和五十年代後半の頃、当時四代目山口組の竹中正久組長が、その父親の実家の隣町の出身で、警察の家宅捜索に対して「おんどりゃ、きたない真似しくさって、何も出てこんかったらどないするんどい、こら!」と吠えまくっているシーンが度々当時のテレビニュースで流されていたが、播州弁とはちょうどこんな感じである。

 

 

当時私は大阪の一膳めしやのテレビ中継でこのシーンを観ていて、客として一緒に観ていたアンコ(日雇い建設作業員)や手配師(やくざの下っ端)が口々に「おい、今度の組長さんえらいガラの悪い人やけど、こんな人がトップになって大丈夫かいな」と言っていたのを思い出す。

しかし、播州の人間からすると「ちょっと怒っていますよ」程度のことであろう。

 

何故かというと父方の実家へ盆や正月に帰った時、いたずらをして地元のおっちゃん等に怒られるときは、皆そんな感じだった。

しかし生粋の大阪人がはじめて聞くとインパクトがある。ただし持続性はなく、本当に最初だけではあるが・・。

 

 

これはよく初めて会った可愛らしい女の子がバリバリの河内弁を喋りだすと、一瞬ぎょっとなるが、次第に慣れてくるのと似ている。

 

 

果たしてこの目の前にいる<X氏>はどんな反応をするのか・・と。

あくまでも冷静にではあるが、実務上は怒鳴った感じの大声でカマシを入れてみたのである。

すると、私の方を見る訳でもなく、視線は別の方向を見ながら手のひらを下にして、ちょうど「抑えて抑えて」というジェスチャーのように上下に振りながら、「まあ、この人(私のこと)にはこの人の考えがあるんで~」と言った後は意味不明の独り言を言っていた。

 

 

しかし<X氏>は焦ったのか完全にカツを入れるタイミングを間違えた。

 

 

このように「アヤ」がついてしまっては、もう私に対して何も言えなくなる。

事実その後「ロールプレイングをしましょう」と言ってきた時、私は「ワシはやりまへんで。そんなもんやりたいモンだけでやったらよろしいがな」とカマシを境に紳士的で上品な物言いから、打って変わってこんな感じの扱いにくい人間に豹変したのである。

 

 

<X氏>も「この人はこの人の考えがあるんで、今日はやめときましょう」などと弱気な発言になっていた。

 

 

もし、「アヤ」がついていなくて、この時点、つまり私がロープレを拒否した時点で<X氏>が「みんなでやろうと言う時に何事だ!」と言っていたら私もそう簡単に「ヤマ」は返せなかっただろう。

 

 

この日はそれで終了したが、後年A女史から聞かされた話によると、この時点から「代わりのサビ管はこちらで用意するから」と私を排除するような動きが始動しだしたのである。

 

 

 

 

 

 


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