このブログにも度々登場した「みなしサビ管」
向こう3年間のうち2年以上の実務経験を積んだ者のみ受けることができる「実践研修」にようやく挑むことができた。
これを修了することにより晴れて「本サビ管」になれるのである。
ちなみに最近また法改正があり、<2年>ではなく、<6か月>でも可能になったそうであるが、今回の実践研修では適用されないとのこと。
神戸の西区(といっても感覚では明石)にある遠い遠い会場で受講するまで、事前にZoomによる研修が必要だった。
数十名、それも百名近くの規模でZoomをやると必ずといって良いほど一定数「画像が映りません」「音声が聞こえません」という(これは言って良いのかどうかは分らないが、俗に『オバちゃん』といわれるような)人が出現する。
数年前に同じ主催者で同じような研修を受けたときは、まだZoomではなくサイト内に埋め込まれた「動画」を試聴してレポートを書くという方式だった。
この2,3年のうちにZoomの利便性を知って変更したのだろう。
なにせZoomではリアルタイムに、受講者それぞれの顔を映し、受講書類をカメラの前に掲げさせて出欠確認を取ることが出来る。
つまりビデオでは本人の代わりの者が受講しても分らないが、それがやりにくい。そういったズルも過去には有ったからなのだろう。
出席者の音声はミュートしなければならないが、これも一定数出来ないオバちゃんがいて暫くはガヤガヤと騒がしい。
またノートパソコンの内臓カメラはさまざまな理由で認識しないことが結構あるが、結局最後まで顔を映すことが出来ずに終わった人もいた。主催者が「とりあえずそのままで受講して下さい」などとその映らない人に言っていたので、おそらく問題なく出席したと見なされたのだろう。
事前の注意書きでは顔を写さない人は欠席とみなす、などと書かれていたが、きちんと事前に準備した人と、ぶっつけ本番でZoomに挑み「映りません」といった人も同じ扱いというのはいささか不公平感を感じた。
主催者を見ると三十代から四十代が多く、Zoomなんてスムーズに使えて当たり前という世代。
受講者は老若男女幅広いが、六十代以上の人も結構見かける。
これらの人にもZoomを起動させて、カメラで顔を映し、音声はミュートさせる、しかもスマホ不可、パソコンのみ・・というのは結構ハードルが高いのかも知れない。
また音声はかなり圧縮されているのか聞きづらい時もある。
私個人としては、Zoomを使っての研修は現時点ではいかがなものかと考えている。
基本、人間嫌いな私ではあるが、このような場面ではやはりリアルに顔を合わせての研修の方が良いと思う。
]]>ここまでつらつらと書いたが、本当は就労継続支援B型のハコモノをDIYしていく様子や指定を受けるまでのリアルを中継したかった。
しかし現実はブログを書きながら工事を進めるという器用さはどうも持ち合わせていなかったようである。
気が付けばDIYもあらかた終わって、申請の方も多少はこのブログでも書いたことがあったが、特筆すべきものはなく、いったん提出したら後は待つのみであった。
就労継続支援B型事業所<E>も短い期間に色々あった。
このブログでは登場しなかったが、「給食屋くずれのおばはん」というのも存在した。
しかしなんでもかんでも書くと私の愚痴のようになってしまうのでそっとしまっておこう。
私はこれまでの人生で比較的人間関係には恵まれてきた方だったと思う。
だが今回の就労継続支援B型事業所<E>を巡っては、来る人間来る人間みなその逆をいった。
これは今まで恵まれてきたのだから勉強というか修行としてA女史を使って神様がわざと「けったいな人間」を送り込んできたのではあるまいか。
唯一A女史とだけは今でも良い関係を築いている(つもりだ)が、今回、新たに就労継続支援B型を開設するにあたってA女史に感謝と報告を兼ねて挨拶に伺った。
その時に聞いたのは、なんとおじいちゃんコンサルの<X氏>と「給食屋くずれのおばはん」は私も知る同じ人物からの紹介であったのと、A女史が信仰している神社は、私が不動産屋開業以来長年崇敬している同じ神社であった。
これが地元の神社であれば「商売人であればよくあること」と片づけられるかもしれないが、私やA女史が拠点としているところから80キロ以上離れた神社である。
だからその時は腹が立ったとしても、なんとも奇妙なご縁でつながっているとしか思えず、全て学びとして受け入れようと思った。
現時点で就労継続支援B型事業所<E>は経営者も法人自体も入れ替わり心機一転スタートした。
広告屋くずれの薄ら禿オジンは相談支援専門員として活躍している。
うだつの上がらぬアラサー男や、おじいちゃんコンサル<X氏>は今どうしているのか私は知らない。
「給食屋くずれのおばはん」はまた給食屋に就職したと聞いた。
A女史は「福祉事業をやりたい」といったあの期間は一体なんだったんだろう、というくらい以前の生活に戻っている。
そして、私は新たに就労継続支援B型事業所を始めた。今まで書いてきた記事のカテゴリが「立ち上げるまでの経緯」としてきたが、これはこれで備忘録として保持しておき、今後はより新たに現在進行形のカテゴリに変更して全く別の角度から記事をアップしていきたいと思う。
それはちょうど<E>をスピンアウトして数か月が経とうとしていた頃である。
私もそれ以降は<E>のことも、あれだけ一緒にやってきたA女史とも連絡を取り合うこともなく、忘れようとしていた。
そんなある日、久しぶりにA女史から電話があり、話を聞いてみると、「おじいちゃんコンサルの<X氏>に騙された!<E>を売ろうと思う」といった内容だった。
なんでも私を追い出したあと、<X氏>は<E>を乗っ取ろうと着々と計画を進めていたという話を聞かされた。
そして、A女史と会う事になり、詳しく話を聞いてみると、<X氏>はハナから怪しいおっさんであり、私としても「だから言わんこっちゃない」だったが、なんと驚いたことに広告屋崩れの薄ら禿オジンも全く別のアプローチでA女史を騙したというのだ。
以前にも書いたように、A女史は芸能活動もしていたのだが、どうもその方面から攻めていったようである。
つまり、私が退いた後の<E>は、A女史の周りに魑魅魍魎がうようよ居た状態だったのである。
そんな話をA女史から直接聞いた直後に例の薄ら禿オジンが「相談員」としてあいさつに来たものだから、私としてもお会いしてニコニコ「やあ久しぶり」と言う訳にもいかなかった。
そして何回か空振り、つまり私が留守の時に来たようだが、ついに対面するときが来た。
あらかじめ分かっていたので、私はスマホの動画をスタンバイした。
そして、本人が何事も無いかのようにニヤニヤしながら挨拶をしてきたところ「よう抜け抜けと来れたのうワレ、何しに来たんや、お前!」と私より年齢でいうと十離れた年上のオッサンに言ってやった。
薄ら禿オジンは「えっ、私は何もしていませんよ」と自分ではなくA女史が悪い、と弁明していた。
私はスマホで録画したその様子をTikTokにアップした。
後でじっくりその時の音声を聴いてみると、不穏な空気を察知した女性スタッフが利用者さんに「2階上がりましょう」と言ってえらい気を遣わせてしまったようである。
<E>はその後「無事」という表現でよいのか<X氏>ではなく全く別の他人の手に渡り現在も営業を続けている。
そうと決まったら、実行あるのみだが、ここに一つすんなりとは行かない事情があった。
<E>をなかばスピンアウトしてからは、向こう3年間のあいだに2年の実務経験を積まなければならない「みなしサビ管」という立場だったため、障がい者向けのグループホームで週に2日ほどサビ管として入っていた。
グループホームの場合は非常勤でも可能だが、就労継続支援の場合、常にサビ管が居なくてはならない。
ということは、自分が就労Bを始めるにはそのグループホームは完全に辞めなければならない。
しかし、そのグループホームの事情を考えると杓子定規に決まった日数前、つまり会社規則では30日前、労働基準法では14日前に退職の書類を出して終わり・・という訳に心情的にもいかない。
やはりここは自分の都合だけで「辞めますわ」というのも自分勝手だと思い、事情を説明のうえ新しいサビ管を募集してもらい、決まったら交代する、ということにした。
ところが3か月経っても中々決まらない。
私はその間、サビ管として従事している時間以外は自分の事務所の改装をすることにした。
まずはアンティーク調の室内に変えるべく、事務所によくありがちな白の量産型ビニールクロスの上に、古材調に塗装した杉のバラ板を貼りだした。
本来は下地に使うものだが、これに木の繊維に浸透するタイプの塗料を塗ると新品という感じがせず、逆に良い感じになった。
こうしてDIY内装工事を進めていき、いつかは新しいサビ管が来るだろうから、その時に本格的に進めていけば良い、と考えそのグループホームのサビ管を続けていた。
私は先述したように週2回しか行かないので、ノーアポイントメントで来ると「留守」である確率の方が高いのだが、ある日のことである。
出勤してみると、そこのスタッフが「先日、相談員さんが訪ねてきて『あき坊さん(実際は私の本名)を知っている』と言ってましたよ」
と言ってきた。
名前を訊くとあの<E>にいた広告屋崩れの薄ら禿オジンであった。
確かに彼は当時、相談支援専門員を受講するため管理者であった私にこの書類にハンコついてくれ、と言ってきたことがある。
普通ならもし再会したなら「やあ、久しぶり」と笑顔で挨拶を交わすのだろうが、そんなことは到底できないある事実を耳にしていた私は、もし再度やって来て、私と会うような事があったらちょっとカマシを入れたろ、と思ったのである。
立ち上げようと思ったのは良いが、どのような作業内容にするのか。
今までの私だったら、出来るだけ最先端のものを取り入れて・・
とやっていたが、全く正反対のことをやることにした。
イメージしたのは前回の記事で書いた、私が中学生のときにオーディオ雑誌に紹介されて知り、高校になってはじめて一人で行った東京中野の喫茶店である。
時代の先端を向いて走るのをやめて、180度転換したら見えてきたものだ。
もし、時代の最先端を取り入れて、となれば今風にいうとメタバースやDAOということになろうか。
このブログがもし15年くらい先に残っていたとしたら「こんなみんなやってる当たり前のこと何言ってるんだ」とお叱りを受けるかも知れない。
しかし考えてみてほしい。
今から15年前、「スマホを見ながらSNSで一般人が情報発信をする」といってもほとんどの人がピンとこなかっただろう。
更にそこから15年前、つまり30年遡ると、「世界中でほとんどの人が電話機を眺めながら日常を過ごしている」というと「何を馬鹿な事を言っているんだ」と言われたはずだ。
そして、更にそこから10年、つまり40年遡ったところの話となる。
時代でいえば昭和50年代の中頃、私が小学校から中学に上がるくらいの時期だった。
親戚のおっちゃんがサンスイの真空管アンプをスピーカーとセットでくれた。
スピーカーはHAWK(ハーク)といって、一つ一つ手づくりでスピーカーを組み立てるという職人気質なメーカーだったが、その当時からみて20年前に潰れたと聞いていたので、知っている人はよほどのオーディオマニアだろう。
アンプも時代でいえば昭和30年代のもの。
おっちゃんからしたら不要になった中古をくれたのかも知れないが、私にとっては人生を変えるくらいのものだった。
そこからアンプの部品を求め、日本橋の電気街に通うようになるのだが、以前のブログにも書いたとおり、「日本橋でんでんタウンというくらいだから日本橋駅で降りたら良いだろう」と考え、本来の正解である地下鉄「恵美須町駅」で降りずに、「日本橋駅」で降りたため電気オタクにはならず、千日前に紛れ込みアウトローの道に進むことになって、そこから不動産屋の道を歩むことになったのは既に述べた通りだ。
そのアンプを弄っていた中学生のころ、そして高校になって東京中野の喫茶店で感動した思いを再現して、分ち合えたらと考えた。
その東京中野の喫茶店とは「名曲喫茶クラシック」というところで、私が中学生のころコアなオーディオ雑誌である「無線と実験」誌に紹介されていた。
とにかくオーディオシステムの殆どが手づくりで、レコード針まで竹を使って作ってしまう。
まず入るとメニューが掲示されていて「コーヒー、紅茶、ジュース」の三点しかなかった。
そして、値段が170円と書かれていて、当時でも普通の喫茶店だと300円くらいはしていたので、高校生だった私にはありがたい。
これでも数年前に読んだ無線と実験誌の紹介ページには150円と書かれていたのでさすがに値上げしたのだろうがそれでも破格だった。
マスターは無線と実験誌に掲載されていたそのまんまのハンチング帽を被った鷲鼻の西洋風な風貌のおじいちゃんで「食べ物はありませんから、もしお腹すいていたら、その角にパン屋があるから買ってきて食べてください」と言ってくれた。
中に入ると、全てがホンモノのアンティークである。
よくアンティークを売りにしている店でありがちなキンチョーやオロナミンCのブリキ看板を掲げているところを見たことがあるが、まるで次元が違う。第一それらの看板は室内ではなく、屋外に掲げる看板なのでおかしいと思ったことがある。
そんな「にわかアンティーク」とはまったくの別物であった。
なぜなら、ここ名曲喫茶クラシックは何もアンティークを売りにしているのではなく、戦後すぐにオープンしたままの造りなので、自然発生的なホンモノのアンティークだったのである。そして、店内は真空管アンプとマスター手づくりの平面バッフルのスピーカーからクラッシック音楽が流れる。
私は時代の最先端を追いかけるのではなく、その真反対に向かって見えてきたこれを就労継続支援B型でやろう、と思ったのである。
もちろん、今からやる訳だから、さきほどの言い回しでいう「にわかアンティーク」店舗にはなるだろうけど、真空管アンプなどは現在アマゾンなどで売られている今風のものではなく、私のジャンク箱に眠っているホンモノの真空管アンプを使って、こういった事ができるのではないか。
就労継続支援B型作業の喫茶部門としてできるところまでやってみよう。
これが私が福知山の大江町にある元伊勢皇大神社に参拝したときに閃いたものでおそらく神からのご神勅ではないかと勝手に思う事にした。
そしてこのブログの一番最初の記事で書いたあるインスタで見た「山奥で見つけた廃バスを山のカフェに改装しよう」としたある女性の記事に戻る。
実際に就労継続支援B型をするにしても場所を借りなければならない、という固定概念からなかなか重い腰をあげることが出来なかった。
しかし答えがわかってからは「なーんだ、なぜこの発想ができなかったんだろう」と思うがやはり25年以上不動産屋の事務所として使っていた以上どうしてもここを就労Bの作業所にする、という発想はすぐには生まれなかった。
ちょうどこの場所は2階が以前はスナックをやっていたところで、カウンターがある。1階の事務所と2階の店舗を合わせると必要最低限の面積は確保できるようだ。
私は中学生のとき、オーディオ雑誌に紹介されていた東京中野にある喫茶店に目が留まり、東京に行ったときには必ずそこに行ってみたいと思い、それは高校になって実現した。
ちょうどその2階の元スナック店舗を、その東京中野にあった喫茶店のように改装して就労支援の場所にしようというアイディアも浮かぶ。
というのも、高校になって初の一人東京旅行で立ち寄ったその店にえらく感動してしまい、私はその後いつか自分もこのような店をやってみたい、と思うようになった。
しかし人生はなかなか自分の設計どおりにはいかない。
あれから40年。
全く別の道を進んできた訳だが、ここにきて就労継続支援の作業所という名目で十代のころに描いた夢を実現できるのである。
ただしこれは「私」目線で見た話しであるが、他にも理由があった。
それは、初めて就労継続支援B型を知ったときに遡る。
利用者がめいめい「工賃」という給料にあたるものを貰うシーンに出会った時のことである。
3千円、とか1万円とかを封筒に入れられているのだが、てっきり「日当」かと思っていたら、「月給」だという。
私ははじめ貧困ビジネスではないかと疑ったくらいだ。
しかし事業所のお話も聞くと致し方ない部分もある。
ここは「仕組み」を変えることによってもう少しなんとかできるのではないか、とその時思った。
まずは自社で何か収益になる事業をやっていて、その一環として作業の一部を訓練に組み込むと少なくとも数千円という月給にはならないだろう。
どうしても企業から安い単価で「一つ組み立てたらなんぼ」と下請けをやると、利用者も大変だが、スタッフも納期に合わせて作業をしているという私には地獄絵図にしか見えない光景が繰り広げられる。
だから、そのとき「何をやろう」というのは漠然としていたが、「やりたくないこと」は明確に決めていた。
それと、もうひとつは<E>を開設して初めて市役所からの紹介で来た利用者さんからの手紙があった。
この手紙というのはその人がパソコンで打ち込んだもので、プリントアウトされたものが一枚、今でも私の手元にある。
この利用者さんは<E>に来るまで、別の事業所に行っていた。
そこでトラウマがあったのか、最初の面談では「在宅で出来ないか」と、しきりに聞いてきた記憶がある。
それでも<E>に来ると、自ら積極的に作業の提案までしてくれるようになり、このくだんの手紙は「チラシを作って市役所に置いてもらうよう私からお願いしてみる」と作ってくれたものの一部である。
そこには「私は色んなところに行ったけど、<E>に来て本当によかった」と書いてあった。
その手紙とチラシを作って自分が生活支援を受けている市の担当者に「市役所にぜひチラシを置かせてほしい」とはたらきかけてくれたようだ。
これぞ本物の口コミであり<E>を立ち上げた身としては純粋に嬉しくてその手紙だけ一枚とっておいた。
厳密にいうと、誤字が多かったためその利用者さんと打ち合わせするために控えとして持っていたものだが、用が済んで本来処分するべきものを記念に持っていたものである。
この手紙を読み返してみると、嫌な事が多かった就労Bだがまたやってみよう、という思いが沸々と湧いてきたのである。
こうしてなんとか就労継続支援B型を再度立ち上げる決心がつき、指定権者である県の窓口に事前協議に行くことにしたのである。
私は2年間のサビ管実務経験をこの<E>で過ごそうと思っていたが、ここを飛び出したことにより胸がすっとしたような、何かの重荷が取れたような感覚と同時に、虚しさも覚えた。
というのも、ここで私の「もったいない精神」がムクムクと顔を出した。
それはサビ管が「みなしサビ管」で向う3年間のうち2年間実務経験をすることにより、本サビ管になれるというのが当時の私の立場だったのである。
それがもし会社経費で仕事と思って行っていたら何も思わなかったかも知れない。
以前のブログの中で「会社でサビ管が必要になったため取りに行くのであれば、たいていは会社経費で取りに行くのを私は手弁当で取りに行った」と書いた。
現にサビ管のグループワークで知り合った人は皆、会社経費で、しかも研修も「業務中」、つまり給料を貰いながら来ていた。
だからせっかく自分の金で取りに行ったのだから、このまま捨てるのではなく、あと1年数か月実務経験をして本サビ管も取っておきたい、と感じたのである。
このような心の葛藤が重なり、私は「傷心旅行」などというメルヘンチックなものでは無いが、いわゆる「リトリート」したくなり、ひとり日本海に向かった。
その道中、丹波の山奥に寄り、そこの住人と話をしていてふとした気づきがあった。
そこは元々私が田舎暮らしに憧れて、競売物件で落札したものの、田舎暮らしどころではない状況になり他人に貸していた物件であった。
当時別のブログでこのことを書いていたので、そのまま引用する。
---ここから
賃貸で貸している田舎物件の入居者が退去するという連絡を頂いた。
田舎なので、当分は空き状態がつづくだろうから、しばらくはセカンドハウス代わりに自分が使おう・・
と思っていたら、まだ前の入居者が入っている状態、つまり物件の中を見ずに
「新しい申込が入った・・」
と、任せている地元の不動産屋から入居申込みの連絡があった。
これもコロナの影響なのか。
少し前では考えられないことである。
そして、入居も無事終わり、ある用事でその物件に行ったときである。
なにやらモクモクと煙が上がっている。
近づくと、洒落た焚火台で木を燃やしている。
都市部では問題になるが、この辺は全く問題ない。
そしてよく見渡すと、庭に転がっていた石やセメントでできた部材を上手に組み合わせてアウトドア風のコンロが造られていて、その脇にはアウトドア雑誌の表紙に出てくるような焚火用の木がまさに絵になる状態で切られていた。
話をしてみると、今は自営で別の仕事をしているが、以前は某有名キャンプ用品店の店長をしていたとのこと。
自営をしていると彼は彼なりに色々あるのだろうが
私には
「なんて自由なんだ」
と映った。
というより、「そうだ、確かオレもこういうことをしたくてここを買ったんじゃないか。何かを忘れていた!」
と目の前に立っている若者が私に教えてくれたようだ。
しかしここは今や彼の城である。
私がどうこう出来るはずもなく彼と別れを告げると、以前から全く手つかずの物件へと足を運んだ。
DIYで手直ししなければならない箇所が多数ある物件だ。
特に外構がひどい。
先ほどの彼と話していて感じたのは土と触れ合わなければならないということだった。
20年間無敗の男、桜井章一氏が億単位の勝負をした後「土に還る」と言っていたのを思い出す。
外構を手直しするのは大変だが、土と触れ合うにはちょうど良い。
すると何やら鉄製の戦利品が出てきた。
錆さびだが、昔の器具は今のホームセンターで安く売られているものとは作りが違う。
柄の部分もしっかりとした造りだ。
鎌は少し重量感があり、その重みの力でカットできる感じだ。
もし、これが今のホームセンターのものなら、少なくともこれだけ野ざらしで放置されていて、ここまで原型はとどめていなかっただろう。
この鍬の先っちょのようなものも土の中に埋まっていた。
なんだか、遺跡の発掘のような気分になった。
以前の私なら、単なる物件の残置物のゴミとして処分していただろう。
しかし、これが後々塗装のとき大活躍した。
錆をある程度取ってから平べったい方でペンキの蓋をこじ開け、逆の方でまだペンキが入っている缶の蓋をコンコンと叩いてしっかり閉めることに活用出来たのである。
このように土と触れ合い大自然にいると人間関係に煩わされることもなく、心地が良い。
私は彼からそれを思い出させてもらい、大阪に帰ってからあるアクションを起こす決心をした。(以下略)
今、この別ブログの記事は非公開にしており、このときは書かなかったが、「もう就労Bなんて懲り懲りだ」と思っていた考えが180度転換し「別の形でやろう」と決心したのである。
さて、ポロポロと利用者も増え始めたそんなある日、私が在宅支援から事業所に帰ってくるとA女史とおじいちゃんコンサル<X氏>が待ち構えていた。
<X氏>は「あなたね、サビ管はこちらで用意するからもういいよ」と切り出してきた。
おそらく侃侃諤諤となると想定していたようでA女史も<X氏>に委ねていたようだ。
しかし私もそれを察して、あえて逆張りで行ってやろうと「そうでっか、ほな失礼しまっさ」と、よく比喩表現で「椅子を蹴って出ていく」というのがあるが、まさしくその状態で出ていこうとした。
というのも、直近のA女史とのやり取りで、もはや一緒に創業しようと二人で誓い合った時とは空気感というか関係も次第に変わってきて、ことあるごとに「そんなん言うんやったらもう降りますわ」と言ってきたのもある。
私が本当に出ていこうとしたその瞬間、A女史が「本当に出ていくの?私との関係はそんなものだったの?」と言ってきた。これには流石にわたしもひどく心を打たれ、結局<X氏>を外して二人きりで話合うことになった。
本当に長い時間話をしたのを今でも覚えている。外で待たせていた<X氏>からしびれを切らした電話が何度も掛かってきた位だから・・。
そしてA女史との長い話し合いの結果、最終結論としてここを去ることにした。
もともと高齢者介護施設をやって人間と接するのが嫌になり、その施設を他人に譲った後の人生は「人」と直接やり取りすることのない株式や為替取引、すなわち投資業で生きていこうと決めたはずだった。そこにA女史から声がかかり今回の事となり、ちょっと寄り道したけど原点に帰ろう、とその時思った。
ちなみにこのブログは障がい者福祉の筈なのにドメインに「fx」という文字が入っていて怪訝に思われたかもしれないが、投資業で生きていこうと決めた時に、その取引の様子をブログに上げていこうと当時取得したものをそのまま使っているからだ。
私はなんだか晴れた気分のような反面、もやもやすっきりしない気分というか、妙に複雑な感情がこころの中を交差しながらその就労継続支援B型事業所<E>を後にすることになった。
その時は私もA女史も分からなかったが、後日談としてA女史から聞いたところによると<X氏>は虎視眈々とその事業所を狙っていたようで、ようやく邪魔者であった私が去ることとなり、内心喜んでいたことであろう。
「サビ管はこちらで用意するから・・」と言うからにはさぞかし優秀なサビ管が控えているんだろう、と勝手にイメージしたが、蓋を開けてみるとなんとその<X氏>がサビ管に居座り、しかも後から県に言われて判明したらしいが「必要経験日数」が不足しているというオマケ付きだったそうだ。
しかし事前にその部門だけ別法人に切り離し、A女史もまた別の会社に売却、難を逃れたという結末が待っていたのはその数か月後のことであった。
昭和の終わりから平成ヒトケタにかけての大阪ミナミ日本橋1丁目交差点から千日前、黒門市場を抜け、電気街、そして、更に南へ下って通天閣、釜ヶ崎、飛田、最終はロータリーのある交差点・・もっとも現在はロータリーは取り壊されて、交差点名に「ロータリー跡」と書かれているがこの一帯、つまり堺筋の南端は私にとって<夜の大学>だった。
五木寛之風にいうと、その地帯は私にとってのメコン・デルタであり、私の大学でもあった・・と表現してもよいだろう。
もっとも五木寛之の場合は「私たち」と表現していたので、おそらく大学の学生仲間がいたのだろうが、私の場合は一人だった。
同年代の学生仲間はいなかったが、そのかわり大学の教授・先生にあたる人がそこには沢山いた。
それは千日前の夜の蝶だったり、地回りのおニイさん、商店の大将、博打場のシケ張り、みんな若かった私に実地で「人生とは何か」を教えてくれる教授・先生だった。
はじまりは、純真な心を持った中学生のとき、日本橋の電気街に行こうと思い、「日本橋の電気街」というからには、地下鉄の「日本橋」で降りたら良いのだろう、と考えたのが「間違い」の元だったのかも知れない。
電気街に行くにはその隣駅の「恵美須町」が最適だったのだが、私は何故か日本橋を降りて千日前に紛れ込んでしまったのである。
夜の不夜城「千日前」が純真な心を持ったラジオ少年(当時はオタクという言葉はまだなかった。かといってラジオ少年も死語だったが・・)を変えていくのは赤子の手をひねるようなものだった。
そして高校になると、少し堺筋を外れて松屋町筋のバイク街、大学になると通天閣からロータリーあたりを根城とした。
当時はバブル期で、今まで日雇いのアンコ相手に百円、千円単位で博打の相手をしていた地回りのおニイさん達が、「兄ちゃん、これからわしらの業界は不動産やで」と口々に言いだし、「ちょっと事務所来てみい」と呼ばれ、博打場のすぐ近くにあった事務所に行くと、ファックスでやり取りした紙を見せて、「これがウチに来るやろ、それを宛名だけ変えてちゃう所に送るねん。それだけで手数料600万円や」と説明してくれた。
「わしらの業界」とは例えアンコ相手のコシャ(小さい)博打をやっているといえども、ハッキリ言ってしまえばヤーさんである。
私はこのあたりの「おあニイさん」達から「おい、大学生」と、いつしか“しこ名”が「大学生」となって、結構可愛がられていて、的屋の店の手伝いや博打場の手伝いなどもするようになっていた。
今ならそんな事をいうと「えっ、そんなことしていたら反社じゃないですか!」と口角泡を飛ばして批判してくる人がいそうだが、当時、このあたりは一般住民とやくざ者は一体となっていた。
イメージとしては、じゃりんこチエという漫画で博打屋のおっさんとテツのやり取りが描かれているが、本当にそんな感じの日常で、正月には餅つきをやくざの事務所でやっていて、近所の住民に配ったりなどという光景が普通にやりとりされる地域でもあった。
当然、この界隈の業界のことも<X氏>の身内である同建協の<X建設>を含め、耳に入るようになっていった。
それが平成四年頃だっただろうか、暴力団対策法が出来てからを境に、少しづつ変わっていったと思う。ただし私自身このころには訳あって、この地を離れていった。
話は逸れたが、的屋の手伝いも博打場の手伝いもやってみるとアウトローな仕事とはいえ結構な「労働」だった。
それが、来たファックスを別の所へファックスするだけで数百万の手数料なんて「この人たちバチがあたるんとちゃうか」と思ったものである。
「お前、宅建取りに行けや。ワシらはあと何年か経たんとアカンねん」と言われた。確かに懲役から帰ってきてまだそんなに時間経っていないから、私にとりに行けということだな、と察した。
もともと、親戚のおっちゃんから真空管アンプを貰って、電気に興味をもったのがはじまりで電気街の日本橋に通うようになり、高校・大学の時は漠然と
「将来、電気屋かバイク屋になろう」
と思っていた私が、不動産屋になったきっかけはこういう不思議ないきさつからであった。
それが、不動産屋になり遊休土地の活用を考えるところから介護福祉事業になり、その中でも高齢者から障害福祉になった、という「風が吹けば桶屋が儲かる」ではないが、「真空管アンプを貰うと障害福祉事業を始める」という顛末になったのである。
]]>
そして私に順番が回ってきた時、そのパンフレットを置いてもらう事に対して、「まあすぐに効果がでるものではないでしょうけど、ええ事なのでやっていきましょう」と応えた。
そして暫く何事もなかったように間を置いて、急におじいちゃんコンサル<X氏>が声を震わせて「あなたね、みんなでやっていきましょう、という時にね、効果がでないとは何事だ!!」と叫んできた。
この記事を書いているのが1年と少し経った時点で、今でもハッキリと思い出せるのだが、私はその時、何故か物凄く冷静だった。
私の頭には「はは~ん、さてはA女史から『みんなにカツを入れてくれ』というたぐいの依頼があったんやな、しかしえらい不自然なタイミングやな」
X氏も、うだつの上がらぬアラサー男と、この時点までは極めて紳士的な喋り方で接していた私の二人だけだから、ここはガツンと出たら皆シュンとなるだろう。「ちょろいちょろい」と思っていたに違いない。
まさか紳士的で上品な喋り口調だった私からヤマを返されるとは夢にも思わず・・。
私は冷静にそう分析すると、感情的にはならず、これまた冷静に「ここは一発播州弁でカマシ入れたったら、オッサンどない出てくるやろ」と分析・仮説をたてながら、しかし声は張り上げて
「おい、こら、おっさん、おんどれ何ごちゃごちゃぬかしとるんじゃ!
今月新規入れる・入れんの話しとるんやろがい。
そんなこと言うとったらワシら言えるもんも、ようモノ言われへんようになるやないけ!」
これは活字では上手く表現できないが、「ら行」は全て巻き舌、「しとるんやろがい」の「い」は、「い」と「え」の中間くらいの発音、全体的には「しとんねやろがえ」といった感じである。
私自身は播州で生まれも育ちもしていないが、父親が播州でも言葉の荒い地域の育ちで、当然私が子供のころ怒られるときは聞かされていたし、昭和五十年代後半の頃、当時四代目山口組の竹中正久組長が、その父親の実家の隣町の出身で、警察の家宅捜索に対して「おんどりゃ、きたない真似しくさって、何も出てこんかったらどないするんどい、こら!」と吠えまくっているシーンが度々当時のテレビニュースで流されていたが、播州弁とはちょうどこんな感じである。
当時私は大阪の一膳めしやのテレビ中継でこのシーンを観ていて、客として一緒に観ていたアンコ(日雇い建設作業員)や手配師(やくざの下っ端)が口々に「おい、今度の組長さんえらいガラの悪い人やけど、こんな人がトップになって大丈夫かいな」と言っていたのを思い出す。
しかし、播州の人間からすると「ちょっと怒っていますよ」程度のことであろう。
何故かというと父方の実家へ盆や正月に帰った時、いたずらをして地元のおっちゃん等に怒られるときは、皆そんな感じだった。
しかし生粋の大阪人がはじめて聞くとインパクトがある。ただし持続性はなく、本当に最初だけではあるが・・。
これはよく初めて会った可愛らしい女の子がバリバリの河内弁を喋りだすと、一瞬ぎょっとなるが、次第に慣れてくるのと似ている。
果たしてこの目の前にいる<X氏>はどんな反応をするのか・・と。
あくまでも冷静にではあるが、実務上は怒鳴った感じの大声でカマシを入れてみたのである。
すると、私の方を見る訳でもなく、視線は別の方向を見ながら手のひらを下にして、ちょうど「抑えて抑えて」というジェスチャーのように上下に振りながら、「まあ、この人(私のこと)にはこの人の考えがあるんで~」と言った後は意味不明の独り言を言っていた。
しかし<X氏>は焦ったのか完全にカツを入れるタイミングを間違えた。
このように「アヤ」がついてしまっては、もう私に対して何も言えなくなる。
事実その後「ロールプレイングをしましょう」と言ってきた時、私は「ワシはやりまへんで。そんなもんやりたいモンだけでやったらよろしいがな」とカマシを境に紳士的で上品な物言いから、打って変わってこんな感じの扱いにくい人間に豹変したのである。
<X氏>も「この人はこの人の考えがあるんで、今日はやめときましょう」などと弱気な発言になっていた。
もし、「アヤ」がついていなくて、この時点、つまり私がロープレを拒否した時点で<X氏>が「みんなでやろうと言う時に何事だ!」と言っていたら私もそう簡単に「ヤマ」は返せなかっただろう。
この日はそれで終了したが、後年A女史から聞かされた話によると、この時点から「代わりのサビ管はこちらで用意するから」と私を排除するような動きが始動しだしたのである。
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