さて、サビ管の審査も無事通過していよいよ4月1日付で指定が下りることになった。
後になって気づいたのだが、私はここに来るまでに一つ、重大なミスを犯していた。
それは高齢者介護と違い、障がい福祉事業の場合、パイが比較にならないくらい小さいことである。
その証拠に高齢者のケアプランセンター、つまりケアマネの居る事務所はこのエリアでも結構な数があり、私が高齢者介護事業をはじめた当初は全て挨拶に回ると、一か月も経たないうちに体験利用の紹介、その流れで本利用がテンポよく決まっていった。
ところが障がい者の場合、ケアマネに相当するのが「相談支援専門員」なのであるが、この計画相談の事業所がこのエリアでは片手で数えても余るくらいしかない。
近隣の市町を回ってもすぐに終わってしまう。
そして事前にこのエリアの障がい者グループホームをリサーチしていたのだが、一人抜けてまたその部屋が埋まるのに数か月かかるなんてザラだった。
で、何がミスかというと、A女史に「オープンしてそんなすぐにポンポン利用者が来るとは限りませんよ、つまり県に出した計画には1か月目から数名利用者が居ることになっていたが、実際は違いますよ」と言っておくのを忘れていたのである。
そしてオープンの日も忘れることができない。
この日は先に書いた広告屋くずれの薄ら禿オジンと、うだつの上がらぬアラサー男、A女史、そして私とメンバー全員がそろって挨拶をすることになっていた。
このメンツを見てハタと気づいたのは全員が障がい者向けの就労支援は素人であったということだ。
よくこんなものでスタートできたな、と思われたかも知れない。
それはA女史が全くの未経験である以外は全員「高齢者介護」の経験者であったから、そのときはなんとかなるだろう、と思っていた。
しかし高齢者介護と障がい者の就労支援は全く違う。
私はプロのコンサルというか、指南役が必要と感じ、A女史にもその必要性を事あるごとに説いていた。
つまりおのずと、A女史の潜在意識にコンサルが必要だということが刷り込まれていったのである。
ただし、私の中では就労支援事業自体のプロであると同時に、出来れは利用者獲得のエキスパートである人を求めていた。
それと、さきほどの私のミス、つまり障がい者支援事業はゼロからスタートしてすぐには利用者が来るとは限らない、というのをA女史に理解してもらっていなかった件だが、A女史の考えは、営業をガンガンかけたらスグに結果は出るものと思い込まれていた。
それらが組み合わさったことにより、後日とんでもない自称コンサル、いや「コンサルまがい」がやってくることになるのである。
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