以前高齢者介護施設を経営していた 2

私は以前高齢者介護施設を経営していた。

 

結局その施設は売り払い、私のその後の人生は投資業で生計をたてようと思っていた。

 

そのときの高齢者介護施設の運営で人間不信に陥っていた私は、とにかく人と関わる事は今後やめておこう、人間と直接関わりたくない・・と考え、パソコンの画面相手に仕事をしたかった。

 

当時は暗号通貨の投資が流行っていたが、私は昔ながらの相場師よろしく株式や為替で投資をやっていくことにした。

 

昔と違い、今やパソコン画面でプロ、すなわちインターバンクディーラーや証券会社にひけをとらないチャートやオシレーター類が表示される。

私は残りの人生これに賭けようとした。

 

しかし神仏はまだそれを許してはくれなかった。

 

それは私が不動産屋を始めたとき、すなわち20年以上昔からの知り合いだった、とある女性経営者からの一本の電話だった。

 

その女性経営者は現在も表舞台、すなわち芸能関係にも顔を出しているのであまり詳細は書けないが、ここでは仮にA女史としておこう。

 

彼女は私からすると不動産屋もしながらコンサートを開いたり、テレビ・ラジオにも出演しているいわば華やかな世界の人だった。

 

そのA女史からの突然の電話である。

 

それは私が以前高齢者介護施設をしていたことについての問い合わせのようなものだった。

 

話を聞いてみるとA女史も何やら福祉関係の事業をやりたいという。

 

はじめは電話で話すのみだったのが、お会いするようになり、話がすすむにつれて一緒に行動することが多くなってきた。

 

私にとっては先ほど書いたように華やかな世界の人であり憧れの人でもあり、また私にとっての姉貴のような存在でもあり、時には厳しい先輩であり、一緒に買い物に行ったときなど、後ろ姿を眺めながら「もし彼女が俺の嫁はんやったらこんな感じなんやろか。でも、もしそうやったら尻に敷かれるんやろな」と奇妙な想像を掻き立てる人でもあった。

 

ともあれ、このような人から頻繁に電話で呼び出されて一緒に物件を見に行ったり、買い物をしたり、時には夜中に物件を見に行ったり、その時など深夜のラーメン屋の前で「ラーメン食べよ」と言われ、なんと男前なA女史なんだ!と舌を巻いたことも有ったが、私にとってはささやかながら楽しいひと時だった。

 

これが今でも思い出す暑い夏の事である。

 

その半年後に実際福祉事業を開設するのだが、今思えば信じられないことに、この時点でまだ福祉事業の中で具体的に何をするのかは決まっていなかった。


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